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磐田茶の歴史

磐田市における茶園の大半は磐田原台地にあり、地形の九割が平坦で傾斜地はほとんど見られません。 気候は温暖で土壌は赤黄色土であり、多くの日照に恵まれています。 県内でも早場所の産地であり、早い年には4月中旬から新茶の摘み取りが始まります。

お茶の栽培面積は550ha程で栽培戸数はおよそ850戸。 現在はこのように茶生産地として、恵まれた環境の磐田茶ですが、それは昔の人達の偉業のおかげと言えます。

対外輸出で栄えた茶業

日本一の茶産地として知られる静岡県では、 安政六年(1859)の横浜開港後に茶業が急速に発達した。 茶が対外貿易の最大輸出品となり、 明治初年に大勢の無禄移住旧幕臣たちが、 牧の原・三方原・磐田原などを開墾して 茶樹を植えた事が最大の要因であった。

当時、インドや中国の茶が欧米市場の主流の中で、 日本茶は特にアメリカ人の嗜好に適して需要を増した。 輸出茶は緑茶だけでなく紅茶としても再製され、 明治10年(1877)頃には静岡や二俣に紅茶伝習所が開設された。

当地方の茶は、 寛文年間(1661~1672)に大藤ではじまったといわれ、 安政年間(1854~1859)には抜里村(現川根町)から 宇治の製茶法が伝わったいわれてれている。 また、西島の旗本菅谷氏の従者が、 安政期に紀州から茶とミカンを持ち帰って 広めたともいわれている。 いずれにしても、 洪積層で水捌けの良い磐田原の土壌が茶栽培に適し、 現在のような大地一面の 良質茶園を形成するに至ったのである。

磐田原の開墾

明治二年(1869)中條景昭、大草高重ら旧幕臣200余名による 牧之原大開墾を皮切りに、 県内各地で次々に旧幕臣による茶園の開墾が始まった。

近世までの磐田原は山林が多く、 開けたところでも肥料とする草刈り場が多かったが、 明治初年になると旧幕臣の川手氏や赤松氏・林氏による 茶園の開墾が行われた。 無禄移住の旧幕臣が開墾した分は、 そのまま所有地と認められたため開墾は急速に進み、 特に赤松則良と林洞海(旧幕府医師、則良の義父)は、 伯父の宮崎泰道を代理人として20町歩余を開墾した。

このほか、中泉西部(現西新町)付近や上浅羽村なども 旧幕臣によって開墾され、 文久年間(1861~1863)には報徳運動家の 伊藤七郎平が一言村の原野を開墾した。

大久保忠利が茶業組合を組織

明治初年、製茶の価格は高騰し、 磐田原を開墾して茶業を営む者が続出した。 同時に、一年に3~4回換金できる作物として 利潤に目が眩んだものが粗製濫造を行い、 一時当地方の茶は信用を失墜してしまった。 こうした不正や不良茶を取り締まるため 明治一七年(1884)見付の神宮で製茶業を営む 大久保忠利が豊田郡の一部・磐田郡・山名郡に 呼びかけて見付茶業組合を結成した。

忠利は早くから製茶業に注目し、 自ら宇治茶園を視察したり、製茶教師を招いたりして 当地方への普及を図った。 また横浜港に出張所を設けて販路を開拓し、 明治二七年(1894)頃に見付に製茶伝習所を開設した。 その後同組合は磐田南部茶業組合と改称し、 統制・管理の徹底、製造・栽培の技術改良を行った。 また、この頃製茶金融の必要性から、 地方銀行が相次いで設立された。

先駆的な機械製茶

製茶は古来より手揉み法で、 中泉の茶業の中心となった青山宙平は 三河辺りから手揉み人を雇っていた。 当地方の茶は福田湊から横浜市場へ廻漕された。

やがて茶業は他の農業に先んじて、明治三〇年代に機械化された。 国際商品として、大量生産が求められたのと同時に、 諸工業の勃興により人夫の確保が難しくなったためである。 磐田郡南部茶業組合でも、明治三二年(1899)から 製茶機械を購入する者に補助金を交付し、 また共同製造及び共同販売組合の設立を斡旋した。 従来どおりの手揉み製法も行われたが、 粗揉機から精揉機に至るまでの全作業、 そして農作業は手摘みから鋏摘みに変わり、 摘採から製茶までの全過程が機械化されるようになっていった。

機械製茶は品質を低下させたが、労力軽減・大量生産のメリットは それをはるかに上回り、大正初期には県内製茶生産額の大部分を 機械製茶が占めるようになった。 ただ、茶摘みは機械化といっても手鋏であり、 依然手摘みを行う生産者も多かった。 最も高値で売れる一番茶時期の手摘みは、近年まで行われていた。

生産された茶は、仲買人を経て横浜の茶商人へ売られ、 横浜で再製された。 しかし、明治三〇年代に清水港が 直接海外と貿易できるようになると、 静岡に製茶再製所ができ、県内茶業は他県の追随を許さない、 確固たる地位を築いた。

大正初期、磐田郡下の茶園は950町歩となり、 耕耘・施肥の改良や病害虫の駆除が奨励されて、 当地方の茶業は安定期にあった。 篤農家は十数名の茶摘人を雇い、 摘採された茶を煎茶・番茶として製造し、 わずかに一番茶の時期に玉露も製造した。

また、この頃には中遠社(上浅羽村)・ 明ヶ島製茶共同組合・西島益盛社(いずれも田原村)・ 丸富製茶共同組合(富岡村)などのように共同で製茶を行い、 輸出港の茶商店や再製会社へ直接販売する組合が台頭してきた。

製茶の共同製造及び販売

西島益盛社は大正六年(1917)の創立で、 粗揉機・揉捻機・再乾機・精揉機など一式を揃えた工場を有し、 組合員から出された生葉を品質に応じて 上・中・下に分けて製造・販売していた。 また工場前には天気予報を示す旗(晴れは白旗・雨は青旗など) を掲げて組合員に知らせていた。

これらの組合は、早くから横浜市場で高い信頼を得ていた 共益製茶販売組合・上内田製茶共同販売組合(現菊川町)を 模範として設立され、 いずれも「共存共栄」の報徳思想が深く浸透し、 早くから産業組合を設立していた地域でもあった。 組合員が共同出資して先進的な製茶機械を購入し、 個人の利益を求めず、組合員全体の 利益を向上させることによって、 安定収入と産地形成に努めていたのである。

参考文献

磐田の記録写真集 第2集 磐田の産業

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